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施設を立ち上げた経緯

「母親として思うの「障がいを持っている子どもを持つママだけが
働けない世の中っておかしいと思う」と言ってくれた恩人の先生・・・」

まずは、(障がい児を持つ)私の自己紹介をさせてください。


私は、今小学5年生になる双子の娘を持つ母親です。


妊娠がわかったのは、2013年の5月下旬。妊娠が判明してから2日後、出血してしまい入院設備のある病院に紹介状を出してもらい、病院へ行きました。

病院に着くと、すぐに先生の問診があり、エコーでの診察となりました。先生は、エコーをしている間ずっと黙っていて、私は「やっぱり赤ちゃんダメだったのかな。」と不安でいっぱいでした。

 

すると突然、先生が「えぇ~!!!」と大きな声を出し、すぐに「双子だよ。ほら赤ちゃんの袋二つあるよ」と興奮気味で教えてくれました。私は、不安だった気持ちから、一気に喜びと驚きに変わりました。

 

旦那や家族に報告すると、皆最初は驚き、その後笑いながら「おめでとう」と言ってくれて、本当に幸せでいっぱいでした。


その後、何も食べられない、運転中も自分の運転に酔い、少しの段差でも刺激になり嘔吐するようなつわりが続き、2週間ほど入院する。入院中、看護師さんから双子妊娠は、妊娠高血圧症や早産、双胎間輸血症候群など様々なリスクがあることを教えてもらったのですが、当時の私は、妊娠したら当たり前のように子どもは元気に産まれてくると思っていた。リスクについて説明を受けている時も…

 

「自分は大丈夫だろう。お腹の子たちは大丈夫だろう」と、どこか他人事のように感じていたのです。

退院後は、仕事をしながら定期的に大学病院に通っていたのですが、ここでも、双子の妊娠出産についてのリスクの説明がありました。

 

まず、私の娘たちは、一絨毛膜二羊膜双胎(いちじゅうもうまくにようまくせいそうたい)(1つの胎嚢の中に胎児が2人、別々の羊膜に包まれて入っている))という、二人の赤ちゃんが一つの胎盤を共有しており、その間が羊膜で隔てられているという状態でだったのです。

この一絨毛膜双胎は、胎盤の中でお互いの血管が吻合し、血流が行ったり来たりしているのですが、この血流のバランスが崩れると、双胎間輸血症候群(そうたいかんゆけつしょうこうぐん)という病気になるとのことで、その確率は約1割程度だと話をされたのです。その時も、約1割程度の確率だから、大丈夫だろうと私は思っていました。

2013年9月、いつも通り大学病院に受診していると、腹部エコーをしてもらっていた先生の顔が急に険しくなります。その突然の先生の顔色が変わったことで、それまで言われていた不安な話しが一気に胸を締め付けるように押し寄せてきます。

先生からは、「少し2人の羊水の量に差が出始めてきている。今ならまだ、レーザー治療が間に合う週数である。しかし、大学病院ではそのような手術はしていないので、子ども病院に転院したほうが良い」と言われます。

その日は、紹介状をもらい帰宅した私は、家に帰ってからすぐに、双胎間輸血症候群について調べはじめました。すると・・・調べれば調べるほど、「私たちはどうなるんだろう」「二人は元気に生きて産まれてきてくれるのだろうか・・・」と、不安で、私の目の前の景色はだんだんと暗くなっていったのです。

妊娠6ヶ月目、暑さが少し残る9月の下旬、宮城県立子ども病院の受診日。今回は、4人の先生が交代で腹部エコーでの診察、先生たちは無言でエコーを眺めています。

エコーの中には元気に動く二人のわが子の姿を見ながら、私は「こんなに元気なのに、なんで手術しないといけないんだろう」と思いました。2番目に診察していただいた先生から「女の子だね」と言われ、ずっと不安だった気持ちが和らぎます。

診察の結果、羊水の量に差があるもののすぐに手術や治療が必要な状態ではないので、まずは入院して様子を見ましょうと話でした。しかし翌日、双胎間輸血症候群と診断され、宮城県立子ども病院に入院となったのです。

この手術を行うのには、条件があって、

 

①双胎間輸血症候群であること

②妊娠26週未満であること

③未破水であること。

この条件を満たした人が治療の対象となるのですが、この時点で、まだ二人のわが子は、羊水の量に大きな差があるわけではなく、双胎間輸血症候群の兆候があるという診断を受けました。

「1割の確率だと言われていたのに・・・。」入院生活中には、新生児を連れているお母さんたちを見ると、「私は二人に無事会うことができるのだろうか・・・」と、悲しい気持ちになったり、妊娠している友達が面会に来てくれた際には「なんで私だけこんな目に遭わなければいけないのだろう・・」と卑屈になったりもしたのです。

 

また、お腹の中にいる二人に対し、一番近くに居る母親なのに、何もできない、二人のわが子に何もしてあげることができない自分をひどく責めました。それでも、二人の胎動を感じるたび、二つの小さな命は、私のお腹の中で今、二人も頑張って生きている。「ママも頑張らなきゃ」という気持ちにもなりました。

ですが、数日たったある日事態は動き始めます、、、。

 

『72時間がやまです』その言葉だけが耳に残った。

二人の羊水の量に差が出始めてきてしまったことと、私の子宮頸管が短くなってきたことで、早産のリスクが高まってきてしまいました。すでに私は妊娠26週を迎えていて、レーザー治療も出来ません。

過剰な羊水を抜くという治療(羊水吸引除去術)を2回行うもさらに2人の羊水の量に、どんどん差が出てきてしまいます。担当医から「翌日に緊急帝王切開で出産して、治療した方が良い」と伝えられます。

その日のうちに帝王切開について、麻酔について、未熟児で産まれた後の二人に起こる可能性があるリスクについての説明がありました。低出生体重児は、正出生体重児に比べて免疫力が弱く、重度の感染症や合併症を起こしやすい。合併症としてよく見られるのが、動脈管開存症、呼吸窮迫症候群、慢性肺疾患、未熟児網膜症、貧血、低血糖や黄疸が出やすかったりすることもあるのだと聞かされます。

 

そしてその後に言われた言葉、「72時間が山です」と言った先生の声だけが耳に残りました。ただ、2人が無事に産まれてきてくれますようにと願うと共に、「もう少しお腹の中で育ててあげたかった。

せめて、自分で呼吸が出来るようになるまで、お腹の中にいさせてあげたかった。何も出来ないママのせいでごめんなさい。」という無力感と罪悪感が込みあげてきて、病室で一晩中泣いたのを覚えています。

そして、雲一つない秋晴れの日、(金木犀の香りがした)、妊娠27週と2日、予定日より3ヶ月早く二人は産まれました。姉の陽咲(ひなた)は、958グラム、妹の結香(ゆいか)は、788グラムで産まれます。

産まれてすぐ、人工呼吸器を挿管され、保育器に入れられ、NICUに運ばれて行く2人を見たとき「大丈夫かな。苦しくないかな・・」と思いながら、思っていたより大きい2人を見てかわいいとも思いました。

出産した翌日に、初めて二人に会いに行きました。保育器の中で、たくさんの管に繋がれて眠っている二人を見たときに、「本当であれば、すぐに抱っこしてあげたかった。管に繋がれずに、ママやパパに抱っこされて、たくさん泣いて、たくさんミルクを飲んで、元気で健康に産んであげたかった・・」と思ったら、また涙が溢れてきます。二人に苦しい思いをさせてしまった自分を責めました。

二人が産まれて3日経ち、自分の足でNICUに行くと、NICUの先生から、「とっても安心して診ることが出来た72時間でした。二人ともよく頑張っています」と話をされ、子どもたちがいっぱい頑張っているのだから、母親である私も頑張らなくてはと思えたのです。

1人だけの自宅で、、、。

先に私だけ退院、自宅に戻ると、お腹の中に二人はいないのに、自分一人だけ自宅にいることが辛くてまた泣いた。本当だったら、二人を連れて三人で自宅に帰ってきたかったのに...と、ベビーグッズを見るたび、悲しくなり、これを使えるようになるのはいつなのか、この服が着れるようになるのはいつなのか、考えるたびに暗い気持ちになり、なんで私が・・・と思いました。

搾乳したミルクを届けに毎日面会へ行く日々、日に日に大きくなっていく二人を見て、少しずつ前向きな気持ちになりはじめます。妹の結香は、生後100日を迎える前に人工呼吸器が外れ、抱っこが出来るようにまでなりました。姉の陽咲は、もう少しかかりそう・・・。「焦らず行きましょう」そう先生が言ってくれましたが、姉の陽咲は、その後も人工呼吸器を外すことに何度かトライするも中々外れません。

いつもと同じように面会に行った帰り、先生に廊下で呼び止められる。「実は、陽咲ちゃんなんですが喉頭軟化症という病気の疑いがあって、、。ファイバースコープという内視鏡を使って検査してみたいなと思っていました。」と話をされます・・・


先生の話では、喉頭軟化症とは、軟骨構造が未熟で軟らかいために呼吸をするときに喉頭の上部構造が喉頭内腔に引き込まれ気道を狭めてしまい、それによって呼吸困難などが起きていると...

この喉頭軟化症治療方法として、気管切開があります。それは

 

①治る病気なのか?→産まれてから成長していく段階で、軟骨構造が発達してきて硬くなってくるので治る。

 

②いつ治るのか?→早くて2歳~3歳の間には治る可能性が高い。

 

③気管切開しなければいけないのか?→陽咲の成長を考えると、人工呼吸器をずっと付けながら、ベッドの上で生活するより、気管切開をして自由に動けるようになり刺激を与えた方が良い。ということでした。

 

この時の私の気持ちは、「またか・・・。なんでうちの子ばかりがこんなに辛い目に遭わなければいけないのか。」と思ったのです。

帰ってから、喉頭軟化症について調べた。小さく産まれて、それでも頑張っている二人を見て、少しずつ前向きになってきていたが、陽咲の障がいが判明し、またどん底に突き落とされます。

周りの友達も、出産ラッシュでした・・・。幸せな出産報告を聞くと、すごく嫌になりました。なんで私ばかり・・という思いと、妬ましいと思う自分自身の気持ちに嫌気がさしていたのです。

検査の結果、陽咲は喉頭軟化症であると診断されます。気管切開の手術を勧められたのですが、気管切開は、のどに穴を開けて気管に短いチューブを入れる処置なので、チューブが気管に入っている間は基本的に声は出せなくなってしまいます。ですが、夫婦で話し合い、気管切開をすることに決めます。

気管切開をしたら、生活はどうなる。陽咲はいつ退院できる?声が出せなくても大丈夫?泣いたことに気づかなかったらどうしよう。不安な気持ちしか出てきません。それでも陽咲は手術をし、気管切開します。

気管切開をした陽咲を見たとき、またこの子の体に傷を残してしまった。痛かったね。ごめんね。ママがもっと丈夫な体に産んであげれていれば、こんな風に気管切開しなくてすんだのかな、、、。ごめんね。という気持ちが込みあげてきて、胸が苦しくなります。それからは、先に退院していた妹の結香を昼間に実家に預けながら、陽咲の面会に通う日々が始まりました。

陽咲は、少しずつ口からミルクが飲めるようになりましたが、退院に向けて、今度は自宅で医療ケアをしていかなければならない問題が出てきます。

私が、吸引や気管切開部分のカニューレが抜けた時の対応、鼻のチューブの通し方、気管切開部分の首紐の交換などを練習。また、人工呼吸器を付けたままの移動練習や、夜間の人工呼吸器の付け方なども教わりました。そしてついに、産まれて10か月、8月にGCUを卒業し、一般病棟へ移ります。

そこから1ヶ月、自宅へ数時間帰るなどの練習や吸引、首紐の交換などを最終確認し、8月末にいよいよ自宅へ退院となるのですが、自宅へ退院することになる上で、病院のケースワーカーさんから訪問看護を勧められました。また、様々な福祉サービスが使えるようにと、ぴぼっと支倉という相談支援事業所も支援に加わってくださることになります。退院前に、支援者会議を行っていただくことに、、、。

 


わが子の鳴き声が聞こえない・・・

 

 

通院はしばらく1ヶ月に1回。待ちに待った双子育児の開始。しかし、陽咲は泣き声が聞こえなく、夜も吸引が必要なた眠れない日々が続きます。鼻に入っていたチューブが抜けてしまい、母親の私が入れなくてはならないのですが、怖くて怖くて手が震えてしまい、上手にできないママのせいで、陽咲も顔を真っ赤にしながら何度も泣いてしまう日々が続きます。

退院してから、忙しく眠れない毎日でしたが、「娘二人と今まで越えたことのない山をママも越えてきた」という自信もつき、相変わらず、陽咲は声が出せないけど、いつも表情豊かで周りを明るくしてくれて、私も少しずつ前向きになってきたのです。

しかし、未熟児で気管切開をしているということもあり、退院後約3ヶ月で肺炎となり、妹の結香も一緒に入院。育児休暇中だったが、周りは保育園利用の申請を始める中で、私は娘をどこに預ければいいのだろうか。仕事に復帰出来るのだろうか。と悩み始めました直後に、「仕事にはいつ頃復帰できますか?」と職場の上司から連絡が携帯電話に連絡が入りました。

医療ケアが必要な入退院を繰り返す我が子、娘を預かってくれる場所なんてあるのだろうか、、、。

病院の発達外来で、アーチルに行ってみるようにとお話があり。予約を取り、アーチルで発達の検査を行うと、娘の発達は少し遅れているような感じでした。今は言葉が話せないこともあり、きちんとした判定ができないとのことでした。

保育園が決まり始めた2月、周りの友達から「どこに預けるの?」と聞かれ焦り始めたわたし。


どうしよう決まってない、、、。どこに預けたらいいの?退院前に支援者会議で会った、相談支援事業所の人に連絡して、「仕事復帰を考えているけど、どこに預けていいのかわからない・・」と相談。

相談支援事業所から、利府にある児童発達支援が空いているので、児童発達支援と日中一時支援を組み合わせれば仕事にも復帰できる可能性があると教えてもらいます。

 

しかし、その時期はまだ児童発達支援事業所も数が少なく、アーチルからは、利府は仙台市外であることと、まず母子通園できる行政でやっている児童発達支援に通いながら、段階を踏んで民間でやっている母子分離型の児童発達支援に通っても良いのでは?と言われましたが、、、。それでも、私は働きたい、働かなければいけないと思っていたのです。

理由は、

①旦那一人のお給料だけでは、家計が厳しかった。

②子育てしてから、社会から孤立した感じがあって寂しかった。

③もっと社会から必要とされたかった。【なんでか?】ずっと老人施設でリーダーとして働いてきたのに、自分がいなくても回っていて、自分はもう必要ないかなって寂しく感じていたから。話す相手もいなかったから。

そこで、私の希望とアーチルの思いがぶつかってしまう。



アーチルから「お母さん働かないで家で見れないんですか?おばあちゃんにお願いするとか。仕事の時間を短くしてもらうとか」と言われ。障がいがある我が子を預けて、働きに出ることがいけないことなのだろうか、、、。働かずに家で見なければいけないのだろうか・・と思い、悔しい気持ちと悲しい気持ち、やりきれない思いが混ざります。

それから、自力で、障がいがあっても通える看護師さんがいる保育園を調べつくして、電話をするも「適宜吸引が必要な子は無理」と言われてしまい、途方に暮れて、絶望的な気持ちに何度もなりました。どうしていつも上手くいかないのだろうか・・・と、苦しさだけが押し寄せてきます。

周りの友達が仕事復帰し始めた桜の香りがする4月中旬、妹の結香は、3歳まで通える小規模保育園が見つかり入園することになりました。そして、姉の陽咲はというと、ようやく相談支援事業所から「受給者証がおりました」と連絡がきて、なんとか利府の施設で預かってもらえることになったので、私はすぐに見学に行かせてもらいました。

開口一番「わ~かわいい。ママ頑張ったね」と我が子、そしてわたしを受け入れてくれる先生たち。

今までの事が嘘のように胸のつっかえが取れていきます。そして、働くことに対して罪悪感を抱いていた私に対し、「障がいを持っている子どもを持つママだけが、働けない世の中っておかしいと思う」と言ってくれた先生。ここに預けよう。もうここしかないと涙がこぼれたのを今でも覚えています。

1週間ほど親子で通っていると、自分と同じように障がいをもつ子供を産み悩んでいるママたちに出会うことができました。ママたち子供たち皆それぞれ、障がいは違うけど、自分をたくさん責めて、たくさん苦しんで、それでも子どもの障がいを受け入れて何とか前を向いて歩いていこうとしているママたちで悩んでいるのは、わたしだけじゃないと感じ、仲間が出来たような気持になった。


5月の連休明けからは、やっと仕事に復帰できる。陽咲は、まだ思うようにしゃべれないなりにも活発に動き回り、たくさんかわいがってもらいながら生活が出来ている。陽咲の口の動きで、何を言いたいのか理解してくれる先生たち。感謝の想いが溢れてきます。

児童発達支援を利用したことで、同じ境遇のママたちに出会え、先生たちに支えられ、私自身が陽咲の障がいを受け入れられるようになった。たくさん罪悪感を抱きながら生活してきましたが、自分だけが不幸で孤独だったわけではないということに気付かされたのです。

陽咲が3歳のころ、喉頭軟化症が治癒となり気管切開を閉じることになり、合わせて、児童発達支援、日中一時支援を卒業出来ることになりました。4歳からは、妹の結香と一緒に普通の保育園へ通えます。言葉の遅れや、発達の遅れが指摘されたけど、何とか周りの応援支援を頂きここまで頑張ってこれました。

障害を持つ子供を授かってから10年。私は過去の自分の経験から、障がい者福祉の仕事に関わる事を決意します。その中で、いかに障がいを持つ子供や親の心のケアと、親子の環境を作っていくことが大切なのか学んだのです。

だからこそ、当時の私のように障がい児をもつお母さんやお父さんの相談にのりたい。過去の経験から学んだことを、現在苦しんでいる方々に活かすことで何かしら世界は変わるのではないか、私にはそんな役目があるのではないかと強く感じたのです。


障がいがあっても、力強く生きる子どもたちの笑顔を増やしたい。そして、あの時陽咲の預け先がなくて困っていた私を助けてくれた、相談支援事業所の方、児童発達支援施設の先生たち。たくさんの支援があったから、今がある。私もそんな素敵な支援ができる輪に入りたい。そのような思いから、今回見守りのケアを強めていく意味を込めて、「見守りケアクレッシェンド」を開所することにいたしました。

 

わが子の発達の件で、預け先が無くて、医療ケアが受けられないなど、利用したいのに利用できない等ありましたら、わたし達に出来ることは精一杯させていただきます。

 

未来の子供たちの笑顔を増やし、一人で悩みを抱え込んで自己完結しそうなママたちのためにも、まずは相談して頂きたいです。長くなりましたが、ここまでお読みいただきまして有難うございました。どうぞよろしくお願い致します。

 

株式会社Flower of life

代表取締役社長

 

​手代木 明美​
 

宮城県短期入所事業所  宮城県日中一時支援事業所  仙台市短期入所事業所  仙台市日中一時支援事業所  医療的ケア児利用可能施設

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